歴史に裏打ちされた高品質な生地
前原光榮商店が作る「甲州織」の洋傘
Vol.01甲州織りの歴史
「甲州織」とは、山梨県の富士吉田市を中心とした郡内地方で生産される織物のことを指します。
郡内地方の織物のルーツは、なんと1000年以上も前、平安時代中期の法令集「延喜式」(967年施行)にさかのぼります。
商人文化で浸透する郡内織物
そこには「〜略〜、甲斐、〜略~〜の以上28ケ国その製するところの布を以て調庸となす」の一文があり、甲斐の国が織物産地の一つとして、税として布(当時は麻)を納めていたことを知ることができます。
その後500年余りのちの戦国時代になると、納税のためではなく商品として織物を製造する産地となりました。というのも、郡内からほど近い江戸が一大消費都市として発展してきたためです。
山に囲まれた郡内地方は耕作可能面積が少なく、さらに当時は土地がやせていたことから米が多くとれませんでした。
そこで江戸初期からは、農民にやせた土地でもよく育つ桑の木を植えさえ蚕を飼わせて上質な絹の原糸を作らせ、織機を貸し付けるなどの政策が行われたことからさらに織物産地として発展していきました。
富士山麓という場所柄、絹織物の質を左右する水質にも恵まれていたことも、その発展を後押ししました。江戸時代の門俳句の名著である『毛吹草』に「甲斐の名産は、甲州判・郡内紬・紙・漆・蝋・姫胡桃・柳下木綿・菱紬・生沢川鮎・題目石」と記されていることからも、17世紀前半にも全国に広く知られていたと見受けられます。
日本から世界へも「甲斐絹」
現代の「甲州織」の直接的な起源は「甲斐絹(かいき)」と言われています。
「甲斐絹」はもともと南蛮貿易でもたらされた「海気」という平織りの絹織物を真似た、今まで長年にわたり積み重ねてきた織物技術を以て江戸時代から生産が始まったといわれています。
明治時代の殖産興業政策により山梨県では生糸や絹織物の生産に力が入れられ、輸出も含めた織物市場の拡大を視野に入れ、織物産業の推進が図られました。
当時織られていた製品には服裏地、八反織物(夜具、座布団地)、そして「洋傘地」と、既に傘の生地の製造も始まっていたこともわかっています。当時の流行紙にも「甲斐絹の傘」として頻繁に取りざたされています。
その薄手で光沢のある絹布の美しさと品質の高さが評価を得、国内外の博覧会にも出品されたり、輸出用絹布としてハンカチーフやパジャマ、裏地、傘地など多彩な製品が海外へと飛び立っていきました。
時代の変化に伴い、和装から洋装に変化していく中でも、服裏地や傘地の需要と知名度を確立していた甲斐絹は、明治時代以降の文学にも多く登場します。
「綿銘仙の縞がらこまかき袷に木綿がすりの羽織は着たれどうらは定めし甲斐絹なるべくや…」
「私はすっかり服装を改めて、対の大島のゴム引きの外套を纏い、ざぶん、ざぶん、と甲斐甲斐しき洋傘に、滝の如くたたきつける雨の中を戸外へ出た。」
「紅絹(もみ)だの、繻子(しゆす)だの、甲斐絹(かひき)だの、~中略~ それはみいんな私のよ。」
「女は洋傘の甲斐絹のきれをよこに人指し指と、中指でシュシュとしごきながらふるいしれきったつまらないことを云った。」
他にも多数の作品に「甲斐絹」の文字が登場しており、その作品を読んだ読者がその価値をイメージできるほどに知られた存在であったと推測されます。
明治時代〜大正時代に質・量ともに最盛期を迎えた甲斐絹は、織技術や細かい柄のバリエーションを多彩なものに発展させますが、太平洋戦争で絹とともに生産量が減り衰退をします。
しかし戦後は絹ポリエステルの素材を中心に、ネクタイ地や傘地をはじめとした発色の良さと耐久性に優れた高級織物「甲州織」の産地として復活をし、現在に至ります。
参考文献:
山梨県立博物館調査研究報告15『近代以降の甲斐絹の生産・デザイン・技法に関する基礎的研究
『日本織物史』織要社 明治31年
『第五回内国勧業博覧会審査報告第6部』巻之3 明治37年
『家庭雑誌(101)』明治30年
『流行(16)』明治34年
『流行第8年(4月號)』明治44年 白木屋呉服店
『山梨県史・通史編3』2006年 山梨日日新聞社